液晶産業が韓国台湾はおろか中国にも負けてしまった(スマホ向けのLTPSではまだトップで健闘しているが)のは衆目の一致するところであり、2000年以降については数多くの研究や書籍が多い。しかしながら、追いつかれ抜かされたのはいつか、また、それを決定ずけた重要な時期である90年代半ばまでの状況についは、ディスプレイサーチ等も設立前であり、研究や調査も乏しい。
これに対し、89年より液晶産業を調査し、当時としては、フラットパネルディスプレイの中ではマイナーだったTFTを本命と認識し、業界でも注目された市場予測「95年に10型級で5万円になれば、1兆円、2000年に2兆円」を行い、TFT工場のモデルラインを提示、ブラウン管と半導体の間のコスト構造、業界構造になるなどの予測、市況変動をウォッチし、90年代後半まではフォロー(当時、野村週報、NRIレポート、財界観測「90年代の新技術潮流」「2000年への技術戦略」「フラットパネルディスプレイ最前線」(工業調査会)等で紹介)し、FPD講演会では、聴衆を前にNRI同士で対決(鎌倉コンサル側は5万円はあり得ずTFTは離陸しない VS 東京アナリスト部隊の私は5万円は歩留まり改善と周辺産業の貢献でありえ離陸する)、また、シャープをはじめ内外の液晶大手とトップと定期的に意見交換をしてきた立場と実感では、日本の液晶産業の敗因について違和感もある。また、この違和感は、当時のトップや関係者も共有している。また、既に、多くの日本メーカーが統廃合し、撤退もしたが、90年代にどういった企業が上位にあったのかを再認識することも参考になるだろう。
液晶産業に限らないが、2000年以降はネット上から容易に情報が入手され、それがコピペを経てコンセンサスとなりやすいが、それ以前は、ネット上の情報は貧弱であり、専門誌や書籍も廃刊になり、情報の落差が大きい。その意味でも、90年代の実感に基づいて当時の資料も踏まえ、データも提供し、議論の場になり、真に敗因の分析のために参考になれば幸いである。なお、この30年間で液晶関係の工場見学は累積で内外併せ50~100、取材や説明会参加は1000件を超えるだろう。
さて、日本の液晶産業が韓国や台湾に負けた時期やその敗因について、「シャープ液晶敗戦(中田氏 著)」等に代表されるように、その時期は2000年頃、また、その敗因は、①設備投資のタイミングが日本ではシャープを除き前期の利益に左右された、②液晶産業は標準装置がなくカスタマイズ装置を使う擦り合わせ型産業であったが、日本は暗黙知が入った第5世代に投資、韓国台湾が後発者利益を享受したとされることが多い。しかし、第5世代の投資は2003年頃であり、すでに抜かされた後なので、抜かされた原因ではないことは明らかである(引き離された要因ではあるが)。
これに対し、まず、日本が抜かされた時期だが、事実認識が異なる。以下の図表(液晶敗因のpdfにまとめてある)に示すように、日本の液晶は99年までは健闘している(特に、韓国は98年IMF危機もあり厳しかった)。図表の数字は、当時各社に確認していたものであり、実態に近いはずである。94年度までは、STN中心であったので、100億円規模の中堅クラスも掲載してあるが、95年以降はTFT中心になったので、これら数社については個別には掲載しておらず、横ばいにしている。94年度までは、韓国は実態ゼロである。98年のIMF危機の前の97年度でも日本は既に1兆円を超えだったが、韓国計で1500億円弱、2000年度で日本1.5兆円超に対し、韓国計で6000億円弱、台湾計で2000億円程度であり、だいぶ接近され抜かされるのは時間の問題、シャープがトップの座を失うのも近そうな雰囲気だが、まだ日本が大手電機中心に上位にあり挽回は可能であった。
実際、私が89年にレポートを書いてサムスンのYWLee氏に求められて液晶産業のプレゼンを何度かしたのが90~91年頃で、確か92~93年頃でも「TFTはまだ離陸していないではないか」といわれたし、彼らも迷っていた。その後、液晶事業部門を立ち上げ、設備投資決行が94~95年頃だったと思う。これについては、参入は96年頃であろう。台湾についても、特許に絡んでの技術移転の調査をしたが、95年当時は殆ど皆無であった。AicerとUnipacがAUOになる前であり、やはりUMCやAicerでプレゼンをしたが、まだ新竹にも工場は無かった。やはり、実際の参入は99年頃であろう。
日本韓国台湾の液晶産業のシェアについてはディスプレイサーチの統計が主流で、97年に日本のシェアが80%、韓国が20%とするものが多いが、これはTFTが中心であり、STN等を考慮すると、まだ10%強であった可能性がある。95年に市場規模は8000億円前後となり、TFTの急成長が大きく貢献したが、まだSTNは3000億円以上はあった。それゆえ、2000年においても60%を維持していた。日本がシェア半分を割り、シャープがトップの座から転落するのは2003年である。
2005年以降は、日本の挽回不能が決定的であり、日本はシャープだけが健闘、2000年前後までは設備投資を継続していた日立や東芝も、再編ムードとなってしまった。これは、生産の先行指標となる設備投資動向からわかる。図表は、95年以降の日本の対韓国台湾の生産シェアの推移と、単純な日本の対韓国台湾の累積設備投資シェアを比較したものだが、数年のタイムラグで傾向をよくあらわしている。99年度でほぼ同等、2003年度は1.5倍となり、タイムラグが短くなっている。
それゆえ、韓国台湾に追い付かれたタイミングであるが、設備投資で99年度、生産規模では実額で2003年度である。これは、まだ液晶TVは離陸しておらず、モニタ市場が急拡大していた時期である。マクロ面では、韓国は98年のIMF危機、台湾は99年9月の大震災(台中で震度6、台北や高雄でも震度4以上、多くの半導体や液晶工場が被災した)があったり、日本はチャンスでもあった。DRAM市況も98年末からは好転、日本の電機メーカーにはキャッチアップしてきた韓国台湾を再度、引き離す好機ではあった。また、逆に2001年以降は、ITバブル崩壊や金融不安で挽回しようと思っても設備投資拡大の余裕はなかったのである。それゆえ、タイミングとして重視すべきは転換点となる1999年であり、この時期についての認識をきちんとしないと敗因の分析も間違ってくるだろう。
次に、設備投資のタイミングが日本では、シャープを除き前期の利益に左右された、というのは、液晶に限らず、半導体などでも一般的にはその通りであるが、95年頃までは、当時は各社TFT部門は赤字であるが、先行投資を敢行していた。また、シャープが比較的、安定して設備投資をしたのは、利益も安定していたからであり、これは、プロダクトミックスによる。特に、PCやTVに比べ画素欠陥が甘いとされるパチンコや、任天堂ゲームなどが高採算で安定していたことが大きいと推定される。また、更に憶測にはなるが、シャープは社内にTV部門はじめ液晶を使うセットがあり、それらが垂直統合モデルできいたことも大きいだろう。これが日立、東芝、NECなど外販中心との差であった。東芝、NECは、ノートPCはあったがスペックが厳しかったし、既に業界として水平分業が進んでおり、内作のメリットが薄かった。
日本、韓国、台湾各社について、本格的なTFTラインが中心となる95年度以降の設備投資行動について、特に、「シャープや韓国が安定して設備投資を継続的に行っていたか」を数値的に検証してみる。
95~2003年度までの設備投資の平均と標準偏差を計算し、標準偏差を平均設備投資で割った値が少ないほど、安定的に設備投資をしているといえるだろう。確かにシャープは60%台であり、数値が少ない方であるが、日立も同様であり、LGも低い。逆にサムスンは80%以上、AUOが100%以上である。図表では、2001年度以降の撤退もあるので、95年度~2001年度までに限れば、日立、シャープだけでなく、NEC、パナソニックも同様であり、安定的な投資が必ずしも重要な条件ではないことがわかる。
それではタイミングだったかというと、これも難しい。当時のクリスタルサイクルと、設備投資の金額を比較すると、設備投資が1年の分解能しかなく、どの位、タイミングが良かったか悪かったかは、決定時期であり、それを知ることは簡単ではない。発表時期はあるが、それが本当かどうかは不明である。ただ、一つ、この図表から言えることは、98年のIMF危機の水準から一気に増額している瞬発力である。
さらに、装置の件であるが、TFTの第二世代、当時、「36×46 サブローシロ―」と呼ばれた頃から、装置については、徐々に標準化が進み、工場のモデルラインができつつあった。各社は、当時、DRAMで稼いだ資金や、得た技術を、液晶に投入、トップも半導体のエンジニアが投入され、歩留まり改善に大きく寄与した。この頃から、東芝やNECなど半導体の雄が、上位に浮上した。なお、当時、議論があったのは、TFT液晶産業は半導体型かブラウン管型かとう議論であり、日立は、ブラウン管的な意識もあり、多面取りよりスループットを優先、半導体の側からのサポートも少なく、設備投資も奇数世代であり、やや苦戦した。半導体技術が中心となるということは既に、トップ級であったサムスン等が強大になるということは容易に予想がつくことでもあった。
装置で擦り合わせというのは、STN時代から、セル工程であり、これについては、光配向、貼り合わせ、液晶滴下など、多くの難しい技術があり、製品のスペックで多様であり、いまだに、差別化要因になっている。特にタッチパネルではそうである。後工程については、やはり半導体やTVの組立に近い。
それでは、日本の敗因は何であろうか。これは、タイミングで異なり、2000年前後と2005年以降、あと長期における普遍的理由があろう。
第一に、問題の1999年である。IMF危機をバネに、韓国大手がリストラを断行、サムスングループは、自動車から撤退、半導体や液晶、ケータイに集中。LGはDRAMから撤退し液晶に集中、現代は逆に液晶から撤退、半導体に集中、日本にとっては、DRAMにとっても、液晶にとっても、手強い相手になった。その中で、アプリとしては、モニタ市場が離陸し、韓国勢は元々優位だったCRTモニタから液晶への転換を進めたのである。モニタ市場は液晶応用分野の中でも、価格弾性効果が効き易く半値になれば、市場は4倍となるとうものであった。元々、モニタ事業が強かった上、こうした価格弾性効果で攻めてくるのは得意である。そして、CRTモニタが最もXGAで価格優位な14型で液晶が10万円を切った結果、スペースコストや消費電力、電磁波防止エプロン等を考えれば十分な普及マジックプライスに到達、98年当初70万台程度と思われた市場は150万台、99年は、2000年問題特需もあり、450万と急拡大、さらにCRTモニタが苦手な150dpi18型では液晶が急拡大位した。また、ノートでも12型から13型へサイズが急拡大し、そのサイズ標準化で韓国勢が先行した。
その背景となったのが3.5Gである。97年までの日本勢の投資はG3の55×65等であり、12型ノートを意識したもので、モニタは意識していなかった。しかしIMF危機で底をうつと一気に韓国勢は60×72の3.5GさらにG4と13型やモニタ市場に優位なサイズの能力を増やしたのである。図表を見ても、98年を境に様変わりしていることがわかる。
また、日本はこの時期、東芝などはLTPS等、高精細化に転換した。そして、2000年以降ITバブル後は、DRAMリストラの最中であり、日立や東芝、NEC等が液晶投資の余力はなかった。銀行不良債権の後遺症もあった。その中で、B/S圧縮もあり、集中と選択を余儀なくされたのである。
第二に、2005年以降である。この時期は、液晶TV拡大についていけなかった(パネルメーカーというよりセットメーカー、ソニーやパナが慎重でまだPDPとか非液晶に拘っていた) もし、ソニーやパナソニックが強気でシャープと連携しパネル供給に特化かTV拡大していれば違ったかもしれない。スマホ市場も同様である。
第三に、90年以降からそうだが、韓国台湾との利益の違いは、政策的要因が大きい。台湾とは減価償却期間の差や研究開発費で説明できる、韓国とは、為替と人件費、TVセットの差である。
また、中国では、現在、工場は装置も含め政府所有であり、減価償却費はゼロである(貸与で3年はタダ)。これで勝つのは難しい。ここが、長期ではジワジワ聞いてくる。もちろん、DRAMなどと同様のタイミング経営スピード、情報力の差は大きいだろう。
以上、日本が液晶で韓国台湾に負けたタイミングと、その真相を再度、分析した。2000年以降、特に2005年以降の分析では、TVやスマホ中心になるが、その時期は、既に大勢が決した後であり、真の敗因ではない。むしろ、敗因は、時期時期で異なり、特に99年が、分岐点だった(また、それは液晶だけでなく、半導体においても分岐点であったといえよう。ファブレスファンドリモデルが離陸しつつあったのもこの時期であることは興味深い。)。
日本は、97年までは、ノート向け市場拡大で成功しており、むしろ韓国台湾を圧倒していた。ビューカム等やゲーム等、ノートで成功した勝ちパターンが、モニタではまた異なり、TVやスマホでは、またまた異なっている。どの時代でも、どの応用分野でも、共通な勝つための要件はあるが、時代や応用分野で戦略が変わることも当然ある。それを無視して、すべて一緒に議論するのは危険である。しかし、いまや90年代は20年以上前の昔であり、当事の実感が薄くなる今、2000年以降の話で結論ずけられた敗因が普遍化され、また将来、時期も応用も異なる場合に適用されるのは危険だろう。
なお、私も調査で大変お世話になったシャープの故鷲塚さんの言葉が以下に掲載されているので参考にされたい。最初に調査で御会いしたのが鷲塚さんであり、毎年数回お会いしたが、その魅力と印象が液晶市場の離陸を確信させたともいえるかもしれない。鷲塚さんの言葉は、普遍に通じるものであり、本レポートと共に、シャープはもちろん、液晶関係者の参考や励みになると幸いである。また、今回の分析は当時を再確認するため、日立、東芝、シャープのそれぞれのOBの方々、前IHSの増田氏に大変お世話になった。
http://www.sharp.co.jp/corporate/rd/n36/pdf/104_15.pdf