2016年3月12日 半導体工場見学記の意義

 

昨年から、若様ブログで、工場見学記、特に半導体工場に関しては、とりわけ熱心にレポートしている。昨年は、全部で15近い工場見学ができ、半導体では、富士通三重、新日本無線川越、半導体そのものではないが、装置工場では、ニコン熊谷、ディスコ呉を、見学できた。

 

半導体では、前工程だけで後工程はなかったが、3月上旬に、新日本無線グループの生産拠点を見学した。佐賀エレクトロニックスは、タイと並ぶ同グループの後工程主力工場。もはや、日本にある後工程は外資OSATであり、国内系は殆ど無い。また一般でも後工程の見学会は珍しいのではないか。

 

外部から累積で最も多くの半導体工場を見学

 

 半導体工場に関する限り、アナリストはもちろん、半導体業界外部の人間としては、累積で最も数多くのラインを最長時間見学しているのではないか、と思う。

 

2000年以前は、国内に半導体工場も多い上、半導体の業績における重要性が高かったので、投資家アナリストの関心も高く、会社側も見てもらおうとし、かつクリーンルームの中に入れた。大手電機(当時の所属)で覚えているだけでも、日立の武蔵、那珂、甲府、高崎、北海セミコン、東芝は、大分、四日市、北九州、姫路、岩芝、三菱電は、高知、西条、北伊丹、NECの熊本、広島、山形、滋賀、富士通は、岩手、会津、FASL、三重、あきる野、沖電気は宮崎、宮城、八王子、ソニー熊本、長崎、その他、パナソニック、シャープ、ローム、UMCJの各拠点、海外でもサムスン、現代電子、金星、ツインセミコン、TI、インテル、モトローラ、SMICGSMCUMCなど数え切れず、主要な工場は年数回訪問している。

 

しかし、2000年以降、特にこの10年では、撤退も多く、工場が減り、投資家やアナリストの関心も薄く、300mmの四日市、三重、山形(ルネサス)、広島(エルピーダ)などを外から見た程度となった。もし今、若く熱心なアナリストが努力しても、この見学実績を、質・量の両面で上回ることはできないだろう。

 

技術屋や工場ワーカーの汗と努力の青春の結晶の記録がないまま歴史の闇に消える

 

半導体工場については、業界OB等による良書も出ているが、それは、OBが在籍した工場が中心であり、共通点は多いものの、実態は会社によって時代によって異なり、メモリーとロジックなどの品目でも、国内海外でも違うのである。むしろ、各社毎の多様な努力の足跡が重要である。

 

しかし、そうした工場の多くの技術者の青春、もはやいわば近代産業史ともいえるが、それらは、リストラの中で、マル秘のノウハウの塊であることもあり、表に出ることもなく、記録がないまま消えてしまう。そればかりか、工場の存在すら忘れられてしまう。

 

本来、こうした技術史など記録は、国や大学が残すべき仕事であろうが、もはやシンクタンクであった半導体産業研究所も閉鎖され、老生が微力ながらやるしかない。幸い、80年代後半から、工場の概況、クリーンルーム内の配置や装置、TATや生産数や品目、工夫などはノートに記し、工場のパンフレットも残してある。それを、新たな工場見学の度に、以前の訪問記と比較しながら、少しずつ紹介している。ネットに残していけば、誰かが見て参考にはするだろし、それが後世の研究のきっかけ位にはなるだろう。実際、富士通三重の見学記は、多くのアクセスがある。

 

そういう記録を分析や感想と共に残すことが、累積で、質・量ともに、一番、半導体工場を見学させていただいた、往年のトップアナリストの責務でもあるとも思っている。クリーンルームの配置図などは、白衣を着ながらメモしており、必ずしも正確ではないが雰囲気は伝えているだろう。概要でいいから記録に残すことで、記憶を呼び起こし、何かの役にも立つだろう。そこを理解していただければ幸いである。

 

ネットでも記録されず書籍も消え暗黒時代となる90年代を無視して分析していいのか

 

半導体工場に限らず、2000年以降は、多くの情報がネットに保存され、閲覧できる。しかし、日本が強かった肝心の90年代はネットに記録されず、書籍も古本となり無くなりつつある。現在は、まだ、当時の責任者や当事者が元気であり、訪問したこちらも、当時の状況を覚えており、確認しあえる。しかし、あと10年もすれば、一部の公式記録は別にして、多くの実際の記録や、当時の雰囲気などを覚えている人間も徐々に消え、肝心の80年代後半から2000年までの実態を無視した、2000年以降のネット上の情報からだけの分析が主流になるだろう。既に、その傾向はあるが、当時の空気や実情とかけ離れた分析がコンセンサスとなりつつあることが恐ろしい。