イノベーションの成功確率、ROEと成長率とR&Dと割引率、ビジネスモデル第三の道、INCJのあるべき姿、などを考えるとき、改めて、イノベーションにおける国家と企業、官と民、という馴染みの問題に、また戻ってくる。
企業家としての国家の主張
そこで、「企業家としての国家」(マリアナ・マッカート著 木村訳 薬事日報社)を読み返してみた。本書の主張は、リスクをとってイノベーションを推進してきたのは、国家であり、国家こそ、偉大な企業家だというものである。
イノベーションの担い手は国家もあるが民の貢献が大きい
米の戦後のエレクトロニクスのイノベーションが、太平洋戦争中の軍事研究からDARPAからシリコンバレーに移り、そういう軍事研究や国家プロジェクトから、インターネットや半導体、レーダーなども多くの研究成果が出たのは、常識であるが、それはアップルのイノベーションへの貢献、特に総合化や実用化での成果を否定するものではない。
民がいいか官がいいかは、イノベーションリスクの中身による
現在の多くのエレクトロニクスは、1950年代から1970年代の米の国家研究に帰するものが多いが、イノベーションのリスクが、人月などのリソースを集中すれば、成功確率が上がる場合は、国家プロジェクトがいいだろうし、この時期はそういうだろう。
リターンは米の民間は取り過ぎ
もちろん、イノベーションが成功した場合に、民ばかりがリターンを享受し、官が何もない、という主張はある程度、賛成だ。
官の役割
官の役割は、①イノベーションを起こす制度作り、②インセンティブ、③イノベーションリスクをとる主体そのもの、著者は、①や②だけでなく、③も民間やファンドでなく、国家だと強調する。しかし、もし、イノベーションのリスクとリターンの配分は偏っているとするなら、それこそ、①と②の問題であり、その最適制度設計などに注力すべきだろう。また、③が少ないような主張をしているが、国防費にせよ、NIHにしろ、むしろ、米はいまだに、日本と比べても多い方だろう。
日本では、制度設計改良や、長期の基礎研究など民間では全くできない分野にフォーカスすべきだろう。