ノーベル賞シーズンの10月
来週、10月に入ると、ノーベル賞の発表シーズンだ。自然科学系では、南部陽一郎、中村修二、の両氏を含めると、日本人は22名(直接、面識があり、お世話になったのは白川先生)、多くの方が、大学等の公的研究機関だが、企業経験のある例も多く、江崎氏はIBM時代(ソニーから移籍)、田中氏は島津での受賞、中村氏は日亜化学での実績だ。赤崎氏も、神戸工業から松下の研究所、根岸氏も帝人に在籍した。
ノーベル賞受賞者を二人も排出の神戸工業
この中で、かつての神戸工業、現在の富士通テン(一部は富士通研の厚木研)は、江崎氏、赤崎氏が、最初に入社した企業である。後にノーベル賞受賞者を二人も排出した企業は、他にはない。さらに、当時は、、「東のソニー、西の神戸工業」と称され、当時の通産省も重視し、関西圏の多くの英才が入社したという。シャープで「ロケット・ササキ」と称された佐々木正氏も神戸工業OBだ。ノリタケグループとなった伊勢電子も創業者の中村氏は神戸工業OBである。
川西機械から戦後、神戸工業、そして富士通へ、さらにデンソー
この神戸工業は、川西財閥の中核であり、海軍の名機「紫電改」「二式大艇」も生んだ川西機械をベースとし、戦後、1949年に設立された。なお、江崎氏は1947年入社、赤崎氏が1952年入社だ。1954年には、ソニーに先んずること1か月、トランジスタを生産、真空管、トランジスタ、ラジオ、TV、無線機器も生産し、1961年には大証二部、1968年には大証一部に上場となる。
しかし、東京五輪後の不景気もあり、経営が悪化、1968年8月に富士通と合併、その中から、カーラジオなど中心に、1972年からは富士通テンとなる。そして、今後、デンソー傘下となる予定だ。https://www.nikkei.com/article/DGXLASFD28H4F_Y7A420C1000000/
長年の謎を解明
ノーベル賞が注目され、富士通傘下あるいは富士通テンとしては、最後の数週間になるかもしれないタイミングで、こうした歴史を持つ神戸工業を祖に持つ富士通テンを、神戸に訪問した。神戸工業の名は、今や、電機アナリストの中でも、知る人は少ないだろうが、私にとっては、長年、3つの謎があった。
すなわち、①なぜ、ノーベル賞受賞者を二人も出す企業であったのか、②そういう名門ハイテク企業でありながら、なぜ苦境に陥ったか、③富士通のR&Dを担う㈱富士通研究所の厚木研のルーツが神戸工業であり、そういう事情もあり、富士通では、研究所を分離独立したとの説があったが本当か、これらを分析、検証したいと考えていた。
展示室は豊富な実機と書類
今回、先日、午後2時間弱、神戸の富士通テンの本館を訪問、人事総務の吉井、杉本、両氏の案内で、展示室を1時間程度、見学、説明を受けた。本館は、戦前のシックな建物であり、関東大震災後に建設、神戸地震でも耐えた頑丈なもので、現在は、役員や総務系が使用している。
工場群の5F建て、1/2Fは電波暗室も要するビルの5Fが展示室であり、1920年の川西機械以来の、神戸工業、富士通、富士通テンの製品、箱、社章、制服、パンフレット、マニュアル、論文、社内報、写真など往時をしのぶものが陳列されていた。一企業の歴史というよりは、まさに産業史でもある。当時の真空管ラジオでは、未だに受信でき、真空管ならではの音声、また、真空管TVも白黒ながら、映像(電波の関係で受信できないので、VTR)も映る。また、神戸工業が富士通傘下になった時の記者会見の様子が残っており、名社長として名高い岡田完二郎氏の肉声を聞けた。
川西財閥
展示や社史(神戸工業社史は富士通により昭和51年発行)によると、1920年の川西機械製作所は、川西清兵衛氏による川西財閥の中核で、ここから、神戸工業、川西航空機(現在、新明和)、大和製衡、が派生し、それ以外に、現在も健在な、日本毛織、兵庫鉄道⇒山陽鉄道、川西商事、などがある。なお、川西機械も川西航空機も戦前から上場している。川西機械は、航空機、機械、衡機、精密からなり、飛行機では、中島飛行機とも親交があり、大正10年に複葉機を完成、多くの飛行機を生産、メーカーとしてだけでなく、日本の航空産業に貢献している。機械部門は、毛織用の生産機が主であるが、広く生産や検査に貢献した。航空機で、既に通信機の重要性を認識していた上に、当時は当然として、軍需もあり、弱電部門へ展開し、通信機、真空管、その部材であるモリブデンやタングステン冶金、特殊ガラスも手掛けた。この頃、明石工場はじめ多くの工場を建設、従業員は2万人を超えたという。
戦後、神戸工業としてスタート
戦後は、川西機械から分離、1949年に神戸工業として再スタート、真空管に加え、ブラウン管、Geトランジスタやダイオードなどのデバイス、その応用製品であるラジオ、TV、産業用の無電機器、トヨタ向けカーラジオ、原子力機器(放射能検査)、精密機器を手掛けた。船舶無線、業務用無線、コンピューター周辺機器や馬券発売機もある。類似企業としては、日本無線や、旧国際電気に似ている面もある。電子産業の発展の中で、1961年に大証二部へ上場、1968年には大証一部となる。
業績が課題
従業員は1960年頃までは2000〜2500人、その後、1965年にかけ4000人規模となる。売上は1960年で60億円、40億円がデバイスである。1967年にかけ、売上は急増、130億円規模となるが、デバイスは横這いの40億円だ。問題は収益であり、税前利益率が1960〜1967年頃まで、売上急増にも関わらず、4〜5%に留まっている。
詳細は不明だが、戦前の政府依存体質が強く、また、研究開発志向が強すぎ、幅広く展開し過ぎてもいる。何年かに一度、棚卸減損や不良資産の減耗などの記事が多い。さらに、量産力や、営業などに弱かったのだろう。1968年に富士通と統合される前にも、何度か厳しい局面もあり、以前から、富士通その他から出資を受けている。
1968年
神戸工業が富士通と合併するのは、大証一部昇格後のわずか半年だ。また、この1968年は、富士通が社内にあった研究所を、独立させ、㈱富士通研究所とした年でもある。
この頃、既に、江崎氏だけでなく、赤崎氏は松下の研究開発部門へ、佐々木氏はシャープへ、移り、中村氏がスピンオフ、伊勢電子を創業している。こうした背景から、せっかく、神戸工業のR&Dを期待して、傘下に収めたのに、辞めてもらっては困るという岡田完二郎社長の想いから、まだ電電公社体質もあった富士通の文化・人事制度等の違いを考慮して、別会社化したのではないだろうか。
また、当時は、富士通も電電公社の中の企業から、池田氏や稲葉氏を中心に、コンピューターや制御など新分野へ転換、半導体でも、シリコンが中心となりつつある時代であり、R&Dを通信中心の電電の通研に依存していただけでは、いけないという想いもあっただろう。そういう意味では、神戸工業は重要なリソ―スだったろう。
デバイスは富士通へ、セットはテンへ
そして、1971年には、デバイス等は、富士通に残し、カーオーディオや民生品などは、富士通テンとして分離される。なお、テンは、「天」であり、クルマも、大きく成長した時代であった。
そういう意味では、神戸工業のDNAのうち、セットは、富士通テンを経て、デンソーに受け継がれ、デバイス系は、富士通研、おそらくは、厚木研に受け継がれたのだろう。それが、先日、京都賞に輝いた三村名誉フェローのHEMTや、デバイス・部材などに生きているだろう。
神戸工業は、戦前のハイテク技術を結集した関西の研究者の拠点であり、企業というよりは、研究所であって、そこから、多くの研究者が巣立っていくことが歴史的役割だったのかもしれない。今は、名は残っていない、このハイテク企業は、イノベーションやMOTを考える上でも、多くを考えさせてくれる。