なぜコロナウイルスの脅威が想像できないのか

 

コロナウイルスショック感染の脅威については、当初は、一般大衆はもちろん、政治家や、医学などの専門家でさえ、認識が遅れてきた。特に、若者は未だに意識が低いようだ。この背景を考えてみたい。

 

 第一は、ウイルスの「巧みで賢い戦略性」であり、症状が軽く、密かに感染が進むことである。医療関係者も、症状の重さに意識が強すぎ、軽い症状がもたらす影響に想像が進まなかったのではないか。

 

 第二は、これと関連して、指数関数、級数的な数字の拡大に対して、直感的な認識が遅れることである。等比級数的な数字の拡大は、常識や直感が働くが、多くの頓智話やお伽話にあるように、2乗、3乗で増える数の恐ろしさは分かりにくい、特に、若者の数学離れ等で、等比級数の認識がない人間が増えている。

 

 第三は、決定や認識のスピードと確実性のバランスである。通常であれば、国会審議のように、ある程度じっくり時間をかけ、エビデンスという過去のデータに基づき認識し決定するが、1日、1週間の遅れが致命的であり、刻刻と状況が変わっている中では、エビデンスを基に確実・丁寧と言っていると手遅れになる。エビデンスが出たときには多数の死者が出ており、ウイルスも変異するかもしれない。まさに経営重心で論じているサイクルと状況のミスマッチである。その意味では、国家のサイクルが速い台湾等の対応が早かったのも、そうだろう。

 

 第四は、ウイルスが見えない上、nmサイズゆえに、これまたイメージが掴みにくい。見える脅威、見えなくても認識できる大きさであれば、いいが、nmなど半導体関係者でなければ、イメージはないだろう。見えない脅威としては、放射能があるが、日本では原子爆弾の被害があり、想像力はあった。

 

第五は、若者中心に、TV離れ、新聞離れが進んでいる。彼らは、スマホ中心であり、自身の関心のあることには注目し、YouTubeなどを見るが、関心がない世界全体の楽しくないニュースは見ようとしない。さらに、AIにより、関心のあることだけを配信する仕組みもこれを助長している。シニアから見れば、世界の悲惨な様子からウイルスの怖さは認識していそうなものだが、別世界なのだ。

第六は、若者の中に、潜在的なシニアへの反発がある。SNSなどで見られるらしいが、このウイルスは、若者にはうつらない、死ぬのはシニアだけであり、少子高齢化で損をするのは自分達なので、その方がいいという意識もあるようだ。