正義監視の中での言論の不自由

 言論の自由は、民主主義の根幹だが、日本では、「出る杭は打たれる」ではないが、会議や大勢がいる場では、発言を控え、あるいは、周囲の雰囲気を察して、本音と違っても、忖度して、流れに合う意見をすることを小学校くらいから学ぶようだ。そのうちに、本音すら忘れ、「カオナシ」能面になる。日本では、実際には、言論の自由はない。アカデミックの世界ですら、権威者やドンの発言に忖度し、その方がいいとされている場合が多いのだから。

 さて、自由な米ですら、社会正義の名のもとに、言論の自由が脅かされていることが多いようだ。

これでは、中国と一緒だ。草の根監視社会に映る分断 米、正義と自由の論争: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 日本でも、コンプライアンス、ガバナンス、の正義の名の下に、一層、表では好きなことを言いにくくなり、その分、ネット社会では、匿名で、おどろおどろしい発言が増えている。本音と建前は、日本文化の特長だったが、その傾向が一層強まり、世界でも、そうなっているのだろうか。社会人学生からも、組織での息苦しさを訴える声が多い。かつては、上司や狭い人間関係の中での忖度だったが、今や、「建前」の正義への忖度となっている。

 

 民主主義、イノベーションには、社会正義と言論の自由、どちらが、良いのであろうか。また、社会正義と言論の自由は両立するのか。今は少なくとも、社会正義の中で、言論の不自由のようだ。